飛騨屋久兵衛とは、蝦夷地(北海道)において、本格的な林業活動を始めた商人である。4代にわたって、北海道の造材事業を展開していった。
本名は、武川久兵衛倍行(まさゆき)、屋号は出身の飛騨と久兵衛倍行の久兵衛を合わせ「飛騨屋久兵衛」称とした。

初代、飛騨屋久兵衛は、1674(延宝2)年 - 1728(享保13)年、飛騨国下呂郷湯之島村(現・岐阜県益田郡下呂町)の出身。

飛騨でヒノキを伐採し、木材問屋を営んでいた。

1692(元禄5)年、豊富な森林や鉱山資源に目をつけた徳川幕府は、飛騨を天領にすると、ヒノキの出荷を厳しく制限し、物納を金納に変更。

年貢の取立てを厳しくし、木材の伐採も、江戸商人に独占させたことから、木材業が成り立たなくなり、庄屋であった武川家の財産は底をつくほどだった。

1696(元禄9)年、こうして倍行は弟「藤助」をともなって江戸に出た。江戸で深川の木材商・楢原屋角兵衛と知り合い、木材業の経営のノウハウについて学び、未だ開発が進んでいない、奥州や蝦夷で事業を興そうと決意し、資金の調達に取組んだ。

1700(元禄13)年、下北半島の南部藩大畑(現・青森県むつ市大畑町付近)にて、木材商飛騨屋久兵衛を開業。南部藩、津軽藩、秋田藩と交渉し近辺の山などから木材の伐採を請負い、伐り出した木材はその地方で販売した。
一方、大畑川などに流送、大畑湊から船積みし、江戸や北陸方面に輸送し販売(海産物なども)をし、事業は順調に進んだ。

1702(元禄15)年、松前藩に伐採願いを申し出、許可を得て待望の蝦夷に渡り、松前藩の城下町である福山(現・松前郡松前町)に飛騨屋松前店を設け、造材業を開始する。

当時は、エゾヒノキと呼ばれた蝦夷松(現・エゾマツ、アカエゾマツを併せてエゾマツ(蝦夷松)と称していた)の資源に着目し、藩の許可を得て、蝦夷地の山々の森林調査を1702(元禄15)年~1711(正徳元)年頃まで行った。初代久兵衛が、1711(正徳元)年~1716(享保元)年 にわたって石狩川上流と勇払川上流である樽前山麓や支笏湖周辺(千歳川、漁川上流域、豊平川上流域、漁川支流ラルマナイ川上流にまで及んだ)の蝦夷松を「飛騨屋」が勇払川上流域の森林伐木を請け負った。

その他にも、1711(正徳元)年~1720(享保5)年 頃まで「勇張山」(夕張山)・「伊古真別」(イコシンベツ・幾春別)、現在のシューパロダムがある夕張川上流、桂沢ダムのある幾春別上流で伐木事業が行われていた。

1718(享保3)年、山田庄兵衛と共同で、臼山(現・有珠山)の伐採許可願いを出し、1719(亨保4)年~1729(享保14)年まで伐木を期間8年の条件で請け負った。

1728(享保13)年、初代久兵衛倍行は、京都から下呂に帰る途中、故郷を目前に55歳で病死する。

 

2代目久兵衛倍正は、1728(享保13)年~1742(寛保2)年、初代倍行の弟「倍則」の長男として、1698(元禄11)年に生れた。

初代倍行には子供が居なかったこともあり、夫の死後、妻は甥の久蔵、伊兵衛、小太郎の三人を養子にし、久蔵を当主にし、二代目「久兵衛倍正」を名乗った。
飛騨屋を継いだ二代目倍正は、初代が請負った山林の伐採を進め、山田庄兵衛と共同で、臼山(現・有珠山)の伐採を期間8年の条件で請け負ったのを始めとして、1737(元文2)年には、尻別山(羊蹄山付近)の伐木を5年間の伐採申請をし、翌年から伐採したとあり、1754(宝暦4)年まで伐木事業が続いた。

年代は不明だが、沙流川流域でも造材事業が行われ、初代久兵衛倍行から2代目倍正が引継ぎ発展させた。

1742(寛保2)年には、倍正は45歳で福山(現・松前郡松前町)で没するが、初代の意志を継いで木材の伐採搬出事業を発展させ飛騨屋の隆盛に尽くした。

 
3代目久兵衛倍安(ますやす)は、1742(寛保2)年~1784(天明4)年5月3日、二代倍正の長男として、1737(元文2年)、下呂郷湯之島村(現・岐阜県益田郡下呂町)で生まれた。

飛騨屋の三代目を継いだ倍安は、1742(寛保2)年二代目倍正が病死すると、花池村(現・岐阜県下呂市萩原町花池)の今井所左衛門が後見人となり、1743(寛保3)年 わずか7歳の倍安が継ぐことになった。

この時、飛騨屋の事業は順調であった。1745(延亨2)年には厚沢部にある目名山を期間5年で請負い、1750(寛延3)年には厚岸山を請負い、1752(宝暦2)年には尻別山(羊蹄山付近)と計8年間の請負った。

1753(宝暦3)年には石狩山の請負を出願し、1755(宝暦5)年から伐採を開始するが、後半になると様々な事件が起こると、事業が上手くいかなくなり困難を迎えることとなる。

1766(明和3)年に、支店の支配人が、店の金を不正に使用し解雇。
しかしこの元支配人は福山(現・松前郡松前町)に渡り、松前藩の家臣と結託し、飛騨屋の請負山を奪おうと企み、このことから1769(明和6)年には請負山を返上し、伐木業を中止することとなる。

1774(安永3)年飛騨屋は伐木業から漁業へ事業の転換を図り、厚岸、霧多布、国後、メナシの四場所を、期間20年で請負った。

1775(安永4)年宗谷場所も請負人となる。
1793(寛政5)年にかけて天塩川周辺において1万石(約1500t)前後の伐採が行われている。この年クスリ場所(現・釧路)も請負ったとみられる。
倍安は、事業が隆盛な時期の経営ではあったが、苦難の連続であったとも言える。

松前藩が飛騨屋に請負わせた場所は辺境が多かったこともあり、1774(安永3)年にはクナシリ酋長人ツキノエが飛弾屋の交易船を妨害、その他にも妨害があり数年間交易が不能となった。

1778(安永7)年にはノカマップ(野釜布、現・根室市東部)の請負場所に、ロシア人が通商を求めて上陸。場所経営ができなくなり莫大な損害を受けた。

1779(安永8)年には請負山の返上をさせた元支配人が、飛騨屋の船に積んであった宗谷の産物を没収、それに責任を感じた船頭が自殺するという事件が起こり、1780(安永9)年倍安は幕府に公訴し、1781(天明元)年幕府は元支配人には死罪、松前藩元家老や勘定奉行など関係のあった者に重罪を言い渡している。
 

4代目久兵衛益郷(ますさと)は、1781(天明元)年 - 1827(文政10)年 、四代目久兵衛は1765(明和2)年8月、下呂郷湯之島村(現・岐阜県益田郡下呂町)で生まれ、18歳で二代目である今井所左衛門を後見人として、飛騨屋四代目を継いだ。

1782(天明2)年には天明の大飢饉が始まり、飛騨屋では米を集めたりして窮民の救済に当り、さらに事業を盛りかえすため、松前藩の負債を延期し、藩との関係修復に努め、藩はこれに応えるため宗谷場所の請負期間を延長した。

1785(天明5)年には、幕府が飛騨屋の宗谷場所を直轄領とし、蝦夷交易を試んだ。

1786(天明6)年には、幕府は飛騨屋の厚岸、霧多布、国後の三場所を直轄領とし交易を行った。
この頃は、幕府も諸藩も財政が窮乏していたようである。

1787(天明7)年には、資金を借り受け請負場所の漁業を拡張、網を開発し漁獲量の増大を図った。

1789(寛政元)年、クナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)が勃発。武装したアイヌ41名が、国後島泊村の運上屋を襲い、国後島を制圧したアイヌたちは、対岸のメナシに渡り、同地のアイヌに蜂起をよびかけ、ネモロ場所のアイヌもこれに応じて約200名にまで膨れ上がり、和人の商人や商船、陣屋を襲撃し殺害。
その後も、忠類のアイヌ首長ホロエメッキが反乱を起こし、忠類河口沖に停泊していた飛騨屋の交易船大通丸を襲撃する。この騒動で和人71人が犠牲となった。

その後、アイヌの酋長の説得が成功し、国後の131名、メナシの183名、合計314名が投降し、反乱参加者をノカマップ(野釜布、現・根室市東部)に護送した。

報告を受けた松前藩も鎮圧に赴き、7月264人の鎮圧隊をノカマップに上陸させた。

計8人の反乱指導者、和人殺害の下手人29人のあわせて37人を有罪と判断。

蜂起の中心となったアイヌは処刑され、その首は松前の立石野でさらし首になった。

事件の後、蜂起の原因を作った飛騨屋は騒動の全責任を負わされ場所請負人を罷免され、村山伝兵衛に請負わせる。

1790(寛政2)年飛騨屋は、「人指し遣し願」「場所営業継続願書」など、被害者の家族救援や事業継続のため、書類を提出するも全て不許可となり、請負場所の返還と寛政蝦夷蜂起の損害賠償、松前藩への貸金9000両あまりの返済を求め公訴するが、幕府に納めた運上金2000両のみ返金されただけだった。

1791(寛政3)年益郷は江戸に上り再び松前藩への貸金返還を訴えるが、わずか70両を受け取っただけで訴えを取り下げ残りを放棄し、「天時人事共に其の宜しきを得ず」として、全ての店を閉め、奥州、蝦夷での事業を終えた。